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ふるさと東成道草スポット

ふるさと東成道草スポット

眠り猫

1-1 はじめに

この地に生まれ育って70年。転勤で3年ほど三重県志摩地方に住んだがそれ以外はずっとこの地で暮らす。
でも、東成のことは余り知らない。
住んでいる人もずいぶん変わってしまった。
70歳になり仕事を辞めて暇ができてしまったので、健康のため、運動代わりに、地元を散策しながら隠れた道草スポットを見いだそうと探し始めた。

「ひがしなり」の地名の起こりは、約1300年前の古い時代にさかのぼる。
現在上町台地とよばれている丘陵地帯の東部を“難波大郡”西部を“難波小郡”と称したことが古事記に見える。
郡郷の名称が公式に定められた713年(和銅6)東部の難波大郡を「東生(ひがしなり)」、西部の難波小郡を「西成」と定められこの東生の名は上町台地の東に新たに生まれた集落という意味で、江戸時代中期頃「東成」と表示が変わるまで、千余年間受け継がれてきた。
現在の大阪市域の大半は、明治初期まで摂津国東成郡と西成郡に属しており、1878年(明治11)に郡区町村編成法が施行され、改めて「大阪府東成郡」となり、1925年(大正14)4月大阪市に編入され「東成区」が誕生した。

ひがしなりは大阪の中でもとても歴史のある町であるらしい。

目次

1-1  はじめに

2-1  化け物稲荷
2-2  歳ノ神
2-3  セルロイド会館
2-4  旧三井被服釦会社
2-5  今里片江土地区画整理竣功記念碑
2-6  大阪市神路土地整理組合竣功記念碑
2-7  胞衣塚(えなづか)
2-8  比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)
2-9  八坂神社
2-10  八王子神社
2-11  八王子神社御旅所
2-12  熊野大神宮御旅所
2-13  八劒神社

3-1  暗越奈良街道
3-2  二軒茶屋石橋旧跡
3-3  中道本通り警ら連絡所
3-4  矢田地蔵尊
3-5  玉津橋
3-6  常善寺道標
3-7  今里ロータリー
3-8  鯨の骨の化石
3-9  謎のコンドル像
3-10  十三仏の石碑
3-11  熊野大神宮
3-12  妙法寺と契沖
3-13  明かり道標
3-14  法明寺
3-15  安堵の辻
3-16  深江稲荷神社

4-1  地蔵尊
4-2  逆卍
4-3  母子保健地蔵尊
4-4  法界地蔵尊
4-5  眠り猫地蔵
4-6  厄除け子安地蔵尊
4-7  狸地蔵尊
4-8  蛸地蔵

5-1  おわりに

2-1 化け物稲荷
住所:大阪府大阪市東成区大今里2丁目23-4

お化け稲荷

白狐

仕事を辞めてから運動代わりに町内の散策にいそしんでいる。
四天王寺大師会の古本コーナーで時代小説;高田郁の「みをつくし料理帖」シリーズを見つけ買い求めた。

物語の中に化け物稲荷という場の設定があり、重要な場面に何度も出てくる。
化け物稲荷はお参りすると祟があるとか狐に化かされるとかの記述があるだけで、荒れ放題だった周辺と社を主人公が何とかお参り出来る状態にし、主人公が重要な決断を強いられるとき幾度とここを訪れては、神狐の笑みに助けられる情景描写豊かなシーンが幾度も登場する。
東京にはモデルとなった化け物稲荷が実際にあり、Webで見ることができる。
しかし、物語の場所の雰囲気は余り感じられなかった。

ところが町内を歩いているとき、化け物稲荷の雰囲気の場所を見つけた。
そこは大今里、暗越奈良街道の少し外れたところにある。
一対の駒狐、優しい顔立ちである。

狛狐なのでお稲荷さんと思ったが違った。
狛狐の奥は社ではなく、真ん中に南無妙法蓮華経、右に妙立松力龍神、左に妙立松姫龍神の石碑が祀られていた。
老木のカイズカイブキが5本、サンゴジュの木も茂っていて少し薄暗い、静けさと落ち着きと少し不気味さを感じさせる。
余り手入れは余りされて無く、東京のお化け稲荷より、ずっとここの方が雰囲気はあると、思った。
主人公のように、何かお祈りし、油揚げをお供えしたいところだが、ここでは鳶ではなくカラスが狙っているようだ。

すぐ東隣に 日蓮宗 妙法結社山口という家があり、ここと関係があろうと推測した。

狛狐は正式には眷属(けんぞく)や白狐(びゃっこ)と言う。
古来から日本では、山や森、樹木に神さまが宿るとされ、御神木(ごしんぼく)としてお祀(まつ)りされている例がある。
これと同様に、動物にも神さまとの関わりを認めてきた。
動物に対する信仰は、やがて特定の動物を特定の神さまの、その神意を伝える使い(使者)とする信仰へと展開していった。
狐という動物は、私たちの先祖が、その生活の中で接することの多かった親しい動物でもあり、おのずと稲荷神社の「使い」としての信仰が定まったのだろう。
しかし、 狐=お稲荷さんということではない。

2020年5月、大阪で新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除された日に近くの和菓子屋さんに行った。
帰りにお化け稲荷に寄ったところ、きれいに更地になっていた。
少し雑草が生えていたので1~2ヶ月前か。

この場所と時代小説みおつくし料理帖(高田郁著)に巡り会えたことが、町内の散策の途中に史跡に触れる「ふるさと東成道草スポット」をとりまとめようと思い立ったきっかけだったので、無くなったのはショックである。

3-1 暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)

 東成区の暗越奈良街道は出発点の玉造二軒茶屋石橋旧跡から放出街道に交わる深江まで東西を貫いている。
 暗越奈良街道は古くから大阪と奈良を結ぶ最短の道で、生駒山越えのとき、茂っている杉の木で昼間でも暗いと言われた暗峠(くらがりとおげ)を越えたことから名付けられました。
暗越奈良街道は710年前、都が飛鳥から平城京に移されると難波津(大阪港)に上陸した人や地元の人たちが生駒越えの路として利用しました。
鎌倉時代にはすでにこの道が利用されていたらしく、暗峠にある石の地蔵さんに文永年間(1264-1274)の年号が刻まれているといいます。
 豊臣秀吉が大阪に城を築き城下町が造られ、弟秀長を大和郡山の城主にすえると、大阪と奈良を結ぶ暗越奈良街道が注目され、多く利用されるようになりました。 
江戸時代の中ごろから、世の中が平和になるにつれて、信仰と行楽を兼ねて伊勢参り、大峰詣で、長谷詣で、信貴生駒への月参り等で賑わい、伊勢参宮道とも言われました。

 暗越奈良街道の出発点は玉造で、玉造の地名由来は古墳時代に勾玉などを製作した玉造部がこの地を拠点にしていたことに起因します。 
この地の玉造部も暗越奈良街道の布施から分岐する十三街道(玉祖道)を通り八尾の玉祖神社を氏神とする玉造部とも交流がありました。
旅する人達は玉造稲荷神社で道中の安全を祈願してから旅立ったそうで、玉造は旅人や見送り人で大いに賑わいました。

長堀通(国道308号)南側に(3-2)二軒茶屋石橋旧跡の石碑が建っています。
江戸時代前から明治の初めごろまで、暗峠を越えて奈良三条へ行くこの道の起点は玉造の二軒茶屋でした。
道を挟んで北側に桝屋(ますや)南側に鶴屋(つるや)という二軒の茶屋で、江戸中期からお伊勢参りが盛んになり、旅人はこの地で旅装を整え、家族友人らの見送りを受けて東へ向かったといいます。

二軒茶屋石橋旧跡

ちょっと寄り道、二軒茶屋石橋旧跡の南側にある東小橋北公園の北東入り口の石畳舗装には、伊勢音頭の笠縫唄の歌詞が刻まれている鋳物製の銘板があります。
―伝承深江伊勢音頭― 笠縫唄
「笠をせいだいし 笠倉建てて 村の庄屋どんに負けぬように」
「笠を買うなら深江で買やれ 馬の足がた これ名所」
暗越奈良街道の出発点の集合場所として、この公園はちょうど良い場所と思えるがこの銘板は見つけにくい。
立ち上がっている碑のようなものがあるとよく分かると思うが。

笠縫唄の銘板

二軒茶屋・石橋旧跡の先にある赤いインターロッキング舗装の玉造駅東商店街が旧街道で、入口に暗越奈良街道碑が建てられています。

道標

入ってすぐ向いに昭和12年に建てられた(3-3)中道本通り警ら連絡所がそのままに残されています。

中道本通り警ら連絡所

商店街の中程南側の通路に東向いて(3-4)矢田地蔵尊が祀られています。

矢田地蔵尊

玉津交差点で国道を渡り分岐道へ入り真東へ進むと、街道左に八阪神社参道があります。参道の入り口の旧い暗越奈良街道の道標には高麗橋の道路元標から一里(4KM)と刻まれています。

道標

暗越奈良街道にからの参拝客を迎える為に明治42年に造った参道で、この時に暗越奈良街道に向けて社殿を南向けに立て替えました。
八阪神社は平安時代の寛仁元年(1017)、関白藤原道長が東成郡中道法性寺に別邸を立て、牛頭天王と白山権現を鎮守として奉祀したのが始まりです。

街道に戻り東へ進むと平野川に架かる(3-5)玉津橋があり、その先は大今里になります。

玉津橋

玉津橋東詰には暗越奈良街道の道標があり、右に曲がって道なりに進みます。

道標

大今里墓地を過ぎると五辻の分岐点が現れ、「南無妙法蓮経法界 是の左りへ三町 常善寺」と刻まれた(3-6)常善寺道標が置かれています。
「常善寺、左へ三丁」とは、江戸時代に大阪の芝居興業と深く関わった常善寺への道を示します。
道標の横には暗越奈良街道の説明文を刻んだ碑(いしぶみ)が据えられています。

常善寺道標と碑

「暗越奈良街道は、高麗橋(江戸時代は玉造)を起点に奈良への最短コースを取る街道で、生駒山脈の横断は、暗峠をこえるのでこの名がある。古代に開かれた平城京への道は、一部この街道と重なるといわれている。
 近世になって、豊臣秀吉の天下統一と、弟、秀長の郡山城での大和支配など奈良との関係で重視された。江戸時代、元禄7年(1694)俳聖芭蕉は、この道をとおり来阪した。これが芭蕉最後の旅となった。また、ほぼ60年周期で爆発的に流行した伊勢参宮「お蔭参り」のときは、1日7、8万人の旅人で賑わった。平成4年 大阪市」
と説明に書かれています。

五辻を右に道なりに行くと北側に東成警察署、南側に東成消防署があり、ここにも暗越奈良街道の道標が建っています。

道標

すぐに今里筋に交差し横断します。

今里筋の南には五叉路の交差点である(3-7)今里交差点(今里ロータリー)があり、太古から玉造から各方面に延びていた諸街道の中継点です。
 暗越奈良街道・北八尾街道・十三街道など東へ向かう街道の分岐点でもあり、昔も今も交通の要所です。
昭和50 年千日前線の延伸工事の地下鉄今里駅付近で、掘削した際に14mほど地下から、体長15mほどの(3-8)クジラの骨の化石が出てきました。
なぜ大阪市の中央東にクジラの化石が、実は現在の上町台地東の河内平野は古代、海で河内湾と呼ばれていました。
上町台地の北端(現東淀川区崇禅寺辺り) で、大阪湾と繋がっていて、クジラが泳いできたのです。
まさに上町台地の東に成った(生まれた)、東成区の地形の原点が垣間見られます。

今里交差点の北への分岐路である今里筋を東に渡ると南にITTの貸しビルがあり。壁面には堺屋太一の暗越奈良街道の大きな案内板が連なります。

ITTビルの案内板

すぐ東にも暗越奈良街道の道標があります。

道標

ちょっと寄り道、次の暗越奈良街道の道標の手前の四つ辻を右にとるとすぐに今里西之口公園があります。ここに(3-9)謎のコンドルといわれる像があります。

謎のコンドル像

街道に戻って、ここからしばらく街道の面影が色濃く残る大今里の街並みが続きます。

街並み

すぐ北には西蓮寺の地蔵様や良念寺の(3-10)十三仏の石碑も見ることができます。

街道をしばらく行くと北側に(3-11)熊野大神宮の社殿が見えます。
熊野大神宮は社伝によると、…用明天皇二年(586)に聖徳太子が(隣の)妙法寺を創建したとき、十二坊もあった大釈迦の社務を司るため、当社を置いたといわれ、古くは熊野十二権現と呼ばれた。
信長の石山攻め(1580年頃・現大阪城)の際に(3-12)妙法寺とともに炎上、本社と一坊のみ再建、大坂冬の陣のとき京極若狭守忠高(徳川方の武将)の陣所になった縁で、江戸時代、新しく就任した大坂城代は、当社の参詣を慣例としたそうです。

明治の神仏分離によって現在の社名となり、菊理社、弁財天を合祀しています。(3-12)妙法寺との境がブロック塀になっていて、古くは一体であったことが分かります。

熊野大神宮から東へ、枚岡線と交差する所に「左奈良・伊勢」と記された道標が置かれています。
 暗越奈良街道と北八尾街道との分岐点に建っていたもので、上部を四角にくりぬいて火袋とし、上に笠をのせた珍しい形の「(3-13)明かり道標」です。
文化3年(1806)に建てられたもので、夜間明かりを入れて旅人の便をはかっていました。

明かり道標

ここから暗越奈良街道は府道24号線(国道308号線)と重なります。
しばらく歩くと平野川分水路(城東運河)に架かる今里大橋を渡ります。

平野川は江戸時代の大和川の付替で水量は減りましたが、それでも豪雨があると洪水被害が出ていました。
 その為に昭和に開削されたのが城東運河で、平野川分水路に改称され、多くの橋が架けられました。

 道沿いの大阪メトロ新深江駅のコンコースにはりっぱな菅笠の壁画があり、一見の価値があります。

菅笠の壁画

新深江交差点を越えると府道から分岐する旧街道が300mほど残っており、往時の暗越奈良街道の佇まいの雰囲気が少し味わえます。
旧街道の少し手前に暗越奈良街道の道標が置かれ、江戸時代に深江で菅笠を買い求める伊勢参りの旅人で賑わった様子が描かれています。

道標

旧街道に入ってすぐに道案内地蔵(法明寺地蔵)があります。
かつてそこに法明寺の山門があり、参道が北へ一直線に延び本堂まで達していました。

法明寺地蔵

少し北側に足を伸ばせば(3-14)法明寺、(3-16)深江稲荷神社、(3-15)安堵の辻と見所は続く。
この旧街道は昔、摂河国境でしたが、現在は東大阪市足代と大阪市東成区深江の境界になっていて、街道の右(南)が足代で、左(北)が深江です。

先で暗越奈良街道は中高野街道(放出街道)が通る布施商店街と交差します。

右へ曲がり、放出街道を南下し、近鉄布施駅当りから近鉄大阪線沿いに伊勢を目指した人も多かったと思われます。

ここから先、暗越奈良街道は東大阪市に入ります。
東成区の暗越奈良街道はここで終わります。

区外から来られた人の帰り道は大阪メトロ新深江駅に戻るか、放出街道の布施商店街を南下して近鉄布施駅に出ます。

4-1 地蔵菩薩

地蔵菩薩はサンスクリット語でクシティ(大地)・ガルバ(胎内)。
大地のように広い大きな慈悲で人々を包み込んで救ってくださる菩薩様とされている。
仏教では、釈迦が入滅して(無くなって)から56億7000万年後に弥勒菩薩が現れ、悟りを開いて人々を救うと考えられている。
弥勒菩薩が現世に出現するまではこの世には仏がいない状態のため、人間はそれまでの長い間、六道を輪廻しながら、苦しまなければならない。
六道とは、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道のことで、地獄道はその名の通り罪を犯した人の落ちる地獄のこと。
餓鬼道は思いやりのない生き方をした人間が行く場所で、食べようとしたものはすべて炎に変わるため、飢えと渇きに苦しまねばならない。
畜生道は牛馬と同じ扱いを受ける場所。
修羅道に行った人はいつも怒っており、争いが絶えないところ。
人間道は私たちが今生きているこの世界のこと。
天道は天人が住む場所で苦しみはないが、いつか死がやってきて、六道のどこかに転生せねばならないのだ。
その間、命あるものすべてを救済するのが地蔵菩薩で、親しみを込めて「お地蔵さま」の名で呼ばれています。
お地蔵さまはよく6人で登場します。
これは六道の6つの世界それぞれにお地蔵さまが現れることから「六地蔵」と呼ばれています。
お地蔵さまが六道を巡りながら人々の身代わりとなって苦しみを背負ってくださるという信仰からです。
閻魔大王の化身であるともいわれ、この世で一度でも地蔵菩薩に手を合わせると身代わりとなって地獄の苦しみから救うとされ人々から信仰を集めました。

地蔵菩薩は、この世だけではなく、死後の世界ででも人々を苦しみから救ってくれる唯一の仏さまで、先立った人の苦難を救ってくれるのは地蔵菩薩だけということから、残された人たちは地蔵菩薩にすがって心を癒してきました。
特に、幼児(おさなご)を亡くした親が死後の世界での子供の安寧を願う心情は格別で、地獄の賽の河原で泣き嘆く子供の霊をなぐさめる地蔵菩薩の話は地蔵和讃に歌われ広く知られます。
こうしたことから、お地蔵さんの中では子安地蔵がもっとも多く作られています。
 次いで多いのが身代地蔵です。「代受苦」ということばがあるように、災難にあった人の苦しみを地蔵菩薩が身代わりになって引き受けられるものです。

また、お地蔵さんには、道祖神と結びづけられ、全国いたるところで見ることができます。
道祖神は、自然の石や石像・石碑で、いわば道ばたの神様です。
そして、民間の信仰の対象として多く安置されてきました。
この神様と仏教の世界の地蔵菩薩が結びついたために、いたるところに広まっていったのです。
お地蔵さんはいろいろな場所にありますし、その数はかなりのものです。
子供を守ってくれるだけではなく、あらゆる願い事を頼むことができます。
いろいろな名前のお地蔵さんが各地にあります。
延命地蔵・蛸地蔵・とげ抜き地蔵・子安地蔵・子育て地蔵・身代わり地蔵・しばり地蔵、・しばられ地蔵・水子地蔵・一願地蔵・日限地蔵・北向地蔵・水吞地蔵・油掛け地蔵など多種多様です。

無病息災、五穀豊穣、交通安全、水子祈願、安産、子授け、子供守護、先祖菩提、戦勝祈願など様々なご利益があります。

そして、このようなお地蔵さんは、辻地蔵(つじじぞう)ともいわれます。近畿地方で盛んな行事である「地蔵盆(じぞうぼん)」は、辻地蔵が対象となっています。

よだれかけなどの色が赤いのは、赤ちゃん・赤ん坊と言うように子供に通じる、生命の起源である太陽の色、魔除けの力があることなどから選ばれたものです。

お地蔵さんを拝む短いことばである真言は、
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
「オン」は「帰命、供養」などの意味があり、神聖な語として、インドでは宗教的なことばの初めにおかれてきた。
「カ」とはお地蔵様の事である。
「カカカ」は「お地蔵さん、お地蔵さん、お地蔵さん。」と一生けん命お地蔵さんを呼ぶのである。
「ビサンマエイ」とは、「類いまれな尊いお方」というようなお地蔵さんへの賛歓の気持を表している。
「ソワカ」は神聖なことばの最後につけて、その言葉の完成成就を願う気持を表します。

毎月の24日は、お地蔵さまのご縁日です。
特に8月のこの日は「地蔵盆」といい、関西の方ではお参りが盛んです。

地蔵盆

地蔵盆

4-5 立江延命地蔵尊(眠り猫地蔵)

住所:大阪市東成区大今里2

家の東の方向のいつもは通らない辻を入ってみると、小さな地蔵さんに出会った。
西向きで午後は陽がよく当たるので、お堂の前上にすだれが掛けてある。

日除のある地蔵尊

すだれをめくって地蔵様を拝もうとしたが扉を開けることができず、見ることはできなかった。

しかし、ふと上を見ると梁の上に眠り猫の彫り物。

眠り猫の彫り物

この眠り猫の彫刻は美しく品があり日光東照宮の猫より名品ではと思うほど。
眠り猫でWebを調べてみたがほとんどが日光東照宮の眠り猫の記事。
日本全国にある神社・寺院には眠り猫以外に猫の彫刻は、そのほとんどは獲物を狙っている姿、あるいは招き猫のようなキャラクター性を加味してあるものが多いとある。
眠り猫の、丸くなりすやすやと眠る姿は見慣れた姿ではあるが、こうした彫刻としては非常に少ないとある。

猫は、穀物や養蚕を天敵のネズミから守るために、長く人間と一緒に暮らしてきました。
日本独自の養蚕信仰とともに、蚕を守る猫も神様として崇められたといいます。

長い歴史の中で、全国に猫神社や猫稲荷、猫仏、猫地蔵といったものがたくさんあります。
また、難破の多かった船旅で中国からやってきた猫は、航海の守り神としても島々で大切にされてきました。
犬に比べて猫は忠誠心の伝説はあまり表に出ないほうですが、実は「飼っていた猫が飼い主に恩返しをした」という伝説も全国で多数残っています。

猫が丸くなって眠っているような様の「眠り猫」は平和の象徴だといわれています。
また、子供の健康、成長を守るとも云われます。
子安地蔵尊と同じ加護がありますね。

眠り猫の彫刻

2019年8月23日 地蔵盆の日にあちこちの地蔵さんにお参りした。
賑やかに祝っているお地蔵さんもあれば、形だけきれいなお花とお供えだけ、何もされていないお地蔵さんとさまざまであった。
 
ここのお地蔵さんは立江延命地蔵尊という名前のあるテントに近所のたくさんの人がお供えをしておられた。
 かってに眠り猫地蔵と呼ばせてもらっていたが立江延命地蔵尊が本当のお名前なのだろう。
 今日は扉も開けられており、お地蔵さんの像も拝むことができた。

地蔵盆の様子

5-1 おわりに

化け物稲荷から始まった、道草スポットだが神社については由緒等Webで調べられるがお寺についての記述は少ない。
できるだけわかりやすく解説しようと思うがなかなかうまくいかない。

区内を巡っているとあちこちに地蔵尊が目に付く。
しかし、娘が子供の時に提灯を寄進した家の前と東に50m位にあった地蔵さんはいつの間にかなくなってしまった。
マンションの建設や家の譲渡で移された地蔵尊もよく見る。
それでも、地蔵さんはまだ多く見られる。
東成区の地蔵さんをすべて巡ってみようと思っている。
東成区全体で200カ所ぐらいあると推定している。
地蔵巡りは行っている人も多く、Webで少し調べることもできる。
だが、だいたいの住所がわかっていても、確認するのはなかなか困難である。
袋小路の奥に祀られている地蔵さんもおおく、細い路地を行くのは怪しげな人とみられる恐れもある。
地蔵さんの祠は道路に置かれているものだけで無く、道路から凹んだ所や壁や塀に納められていたりして通りを見ただけではなかなか発見できない。しらみつぶしに路地を歩くしかない。
したがって、地蔵尊巡りは思ったより困難で時間も係りそうである。
しかし、思いがけないところで見つけると自然と口元がほころぶ。
きれいな生花の仏花が供えられている地蔵さんは掃除もきれいにされていて大切に祀られていることがわかる。
でも廃屋の前で誰にも世話がされていないと思われる地蔵さんも見かける。
今回の東成道草スポットでは今までお参りした地蔵尊の中から興味を覚えたものを少しだけ採りあげた。
東成区のすべての地蔵さんを東成地蔵巡りとして別冊で採りあげたいと思っているがどうなるか。

追伸
高槻市に嫁いだ娘が孫と時々里帰りをする。
娘一家で行っていることのひとつにポケモンゴーがある。
高槻市にはポケモンのポケスポットがあまりないが、我が家の周りにはけっこうあるみたい。
娘と孫のスマホにポケストップやジムという施設の場所が表示され私にここどこと聞いてくる。
東成道草スポットに挙げた場所のほとんどがポケストップであちこちの地蔵さんもそうであることが多い。
娘と孫といっしょにポケモンゴー巡りをさせられている。

2019年1月~8月 調査まとめ

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