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6月槻

6月槻

私は蔓や竹、樹皮で編んだ民具(籠)が好きです。これら植物を素材にした作品は実用的で美しく自然にもやさしいと言えます。

材料は素材の生育時期に合わせ、その時期でないと収穫することはできないし、性質等本当に知らなければ扱うことは難しいと言われる。

季刊「銀花」のバックナンバーで雑木林を編む―籠 の特集をスクラップしている。
その中に槻で作ったやわらかな光沢の文箱の写真(小林康浩撮)がある。
この文箱は岩手県の菅原春雄さんの作品であった。
槻の文箱

記事から槻のところを引用する。

【槻の雑木林に】 「あの木が槻か…」小声でつぶやくや、菅原春雄さんは熊笹に覆われた谷に向けて一歩踏み出した。
とたん小柄な翁の姿は追生い茂る熊笹に飲み込まれ、消え失せたのだった。
…(中略)…
春は山菜が出たといっては山に行き、秋はもちろんきのこ採りに。
山に在ることがほんとうに好きで、そのうえ工夫する柔らかい心の持ち主は、三十年ほど前から樹皮や蔓で籠を編みはじめた。
今手がけている素材は槻と鬼胡桃と山葡萄の三種。

【手鉤の意味】 
芽出しの季節なら槻と欅は容易に見分けがつくと菅原さんは言う。
槻は『広辞苑』には欅の古名、または一変種と記してあるし、『日本の樹木』(山と渓谷社)で目次で槻と記されたページを開くと欅の写真が。
しかし、菅原さんにとっては全く違うものらしい。
「欅はだめよ、槻なら編めるけど」外見でいうなら、新芽が赤ければ欅、緑に出たら槻というのが菅原さんの説。
梅雨の晴れ間の上天気の一日、その槻を探しに山にやって来たのだった。
道具は手鉤とのこぎりと材料を入れる袋。
姿を消した菅原さんを追う。
熊笹に滑り岩につまずきしている間に、もう菅原さんは樹の吟味に。
手鉤の意味がわかった。
槻と欅を見分けるもう一つの方法は実際手鉤で幹を引っかいてみることだった。
「お茶碗くらいの太さがいいの、どんぶりではだめ」その幹をちょんちょんとつついて引っ張る。
この時ぼろぼろになるのが欅で槻はすっと樹皮が剥げるという。
槻と見定めた樹木にのこぎりを当て、切り倒しにかかる。次に皮を剥ぐために幹に手鉤で縦に傷をつける。
細めの木なら等間隔で四本ぐらい、少し太めなら六本ぐらいに。
その幅で樹皮が剥げるというわけだ。
根元の方から外皮に手鉤をこじ入れて、ぐいぐいと力を込め引っ張ると、引き戻されるような抵抗感を残しつつも皮はべりべりと剥がれた。
しっとりとして柔らかな風合い、鈍い光をたたえたそれは、まさに雑木林からの贈り物に思われた。
…(中略)…
皮を剥ぐ時期はそれぞれの木の事情でみんな異なるという。誰に教えられたのでもない。
自ら山に分け入り木の前に立ち、そうして蓄えた知恵であった。
樹皮はしばらく乾燥させた後、テープ状に断栽されて編む作業に入る。
以下略・・・

竹や蔓の籠はよく見かけるがケヤキの樹皮でも編むことができることを始めて知った。

名前の由来
槻(ツキ)はケヤキの古名です。ケヤキの材質は堅いうえに腐食しない強靭さを持っている。そのため、ツキの語源は強木(つよき)だったとされる。
あるいは、古代には神の依り代として神聖視されたため、「斉(ゆ)つ木」=「斉槻」(ゆつき)に淵源するという説もある。
槻(つき)の名がケヤキ(欅)に変わるのは、平安時代の終わりごろと言われる。
「際立って目立つ」という意味の「けやけし」から「けやけき木」と呼ばれるようになり、それがなまってケヤキのなったとされる。
また、「けやけし」には尊い秀でた意味もある。他にも諸説あり、キメアヤギ(木目綾木)、カヨキ(香木)の転訛したともいわれる。

蘇我馬子(そがのうまこ)が我が国最初の仏教寺院・飛鳥寺を建立しようとしたとき、寺地として選んだのは真神原(まがみがはら)の中の槻の木の下だった。
槻の木が生い茂る聖なる場所こそ新しい神を祀るにふさわしいと考えたのだろう。

飛鳥寺創建の後、寺の西には何本かの槻の木が飛鳥川右岸の河岸段丘に残った。
そこは槻の木の広場として整備され、外国からの使者の供宴やさまざまな催しに利用された。
西暦645年の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我本宗家を滅亡に追いやる中臣鎌足と中大兄皇子が初めて出会ったのは、槻の木の広場の蹴鞠の会だった。

槻の木と言えば、聖徳太子の父・用明天皇の宮号にも槻の字が使われている。
『日本書紀』の用明即位前紀によれば、「磐余(いわれ)に宮を造る。
名付けて池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と曰ふ」とある。
磐余にある池のほとりの二本の槻の木が並び立つ場所に宮殿を設けたというのだ 。
垂仁紀によれば、磐余池では舳先(へさき)が二股になった儀礼舟を用いて、舟遊びが行われた。
それは単なる遊行としての舟遊びではなく、魂振(たまふり)と呼ばれる呪術的儀礼だった。
なぜ用明天皇の宮が池辺双槻宮と名付けられたのか、槻の木は語源が「斉(ゆ)つ木」ではなかったかと考えられるほど、古代には神の依り代として祀られた聖なる木だったのだ。

それだけではない。天高くそびえる槻の巨木は、四方に大きく枝葉をのばし大地を覆い、また朝日夕日を受けて樹影を遠くに伸ばす、王宮にもっともふさわしい聖樹と認識され、王宮はそうした聖なる場所に営まれるべきだと考えられていた。

用明天皇の池辺双槻宮だけではない。景行天皇の纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)も雄略天皇の長谷朝倉宮(はせあさくらのみや)のそばにも、百枝をのばした槻の巨木があった事が、『古事記』の雄略段に引く天語歌(あまがたりうた)から分かる。

さらに、古代の市(いち)はしばしば聖なる樹の立つ場所に営まれたようだ。
大和の海石榴市(つばいち)、阿斗桑市(あとのくわいち)、軽市(かるのいち)では、椿、桑、槻が、また河内の餌香市(えがいち)は橘が、市を象徴する聖なる樹だったという。そうした聖樹と王宮、市が相互に関係のあるといわれている。

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